ブラッドボーンおける狩りの様式 Ⅰ

 ブラッドボーンというゲームは、19世紀ヴィクトリア時代(1837年から1901年)を舞台とし、獣と狩人の闘争を描いたものである。獣や神としてあがめられる上位者という存在、血の技術など様々な要因が絡み合い、独特で魅惑的な世界を織りなしているが、その世界観を理解するうえで特に、アイテムのテキストが重要になってくる。本稿ではヤーナム(本作の舞台となる街)の狩りに対する姿勢を考察していく。

 

 先ほどアイテムのテキストが重要と言ったので、一つ取り上げてみる。ヤーナムの狩人衣装、トップハット。

トップハット

紳士然とした様式美を愛する狩人たちの帽子

仕込み杖がそうであるように、ある種の狩人は様式美を重んじる

彼らにとって、様式美であれ、あるいは美であれ正義であれ

それらこそが人らしさであり、狩人を人に留めるよすが(よるべ)なのだ

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トップハット テキスト

 

 このテキストで面白いのは「彼らにとって、様式美であれ、あるいは美であれ正義であれ それらこそが人らしさであり、狩人を人に留めるよすが(よるべ)なのだ」という部分であろう。生きるか死ぬかの世界に身をやつす狩人が様式美を重んじるのはなぜであろう。「人に留めるよすが(よるべ)なのだ」とテキストでは書かれているが、なぜ「人に留めるよすが」として様式美が機能するのであろうか。

 

 まず議論に入る前に狩人とその敵、獣についてほんの少し説明する。

 獣とは、人である。簡潔すぎる命題であるが本質は言いえている。より詳細に定義すると「獣とは、獣の病に罹った人のことである」。そしてこの獣となった人は理性を失い、近づくものを容赦なく攻撃する。(何故攻撃するかは、ゲーム最序盤、人間を食べる獣と相対峙するため、もしかすると捕食目的で人を襲うのかもしれないが、情報が足りないため断言はできない。)そしてこの危険な獣を狩るのが狩人という訳である。ここまで読むと気づくかもしれないが、狩人と獣の目的性は同じ「人を殺すこと」である。獣とは元は人であるため、獣を狩る狩人は間接的に人を狩っている。では目的性が同じ狩人と獣、本質的に何が違うのであろうか。理性のない獣と同じことをする人間を人間と定義しても良いのだろうか。

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狩りの関係

 

 ここでトップハットのテキストが活きてくる。「彼ら(狩人)にとって、様式美であれ、あるいは美であれ正義であれ それらこそが人らしさであり、狩人を人に留めるよすが(よるべ)なのだ」ということからも分かるように、狩人は人であるため、様式美や美や正義を重んじ、獣と自らを分かつ。オルテガは「大衆の反逆」の中で

手続き、規則、礼儀、調停、正義、道理!これらすべてはいったい何のために発明されたのだろうか。かかる煩雑さはいったい何のために創り出されたのだろうか。(中略)そうした煩雑さのすべてをもって、市、共同体、共存を可能たらしめようというわけである。

と述べている。オルテガの言う煩雑さとは正に様式美や美や正義であり、獣にはない煩雑さを持つ狩人は、獣のような行為をしながらも人間であることを「可能たらしめようよう」としたのではないだろうか。

 

次の記事ではカインハーストの様式について考察しようと思う。

 

 

 

 

 

ダークソウル考察~歴史と個人~

  ダークソウルを語る際、自由に焦点を当てると少し面白いものが見えてくる。

 

 ダークソウルというゲームでは、プレイヤーの動かすキャラクターの無力さが強調されている。一般的なゲームに比べ、ダメージ量も死亡ペナルティも途轍もなく大きい。そしてキャラクターの使命もまたとても重い。ダークソウル1の世界では火が世界の理なのだが、その理たる火が消えかけ、キャラクターは人柱の如く継ぐため、神話に登場するような偉大な王を4人倒さなければならない。ただの、死んでも生き返ることが出来る以外に特殊能力はない人間の身でだ。そして言われた通り倒す。「言われた通り」と言うのが重要で、キャラクターは操り人形さながら言うことを聞くだけ、そこに自由意志は存在しない。倒さない、という選択をしたければゲームをやめる以外に方法はない。

 

 本来ゲームにはハプニングが付き物である。例えばドラゴンクエスト11では魔王を倒すための剣が奪われ、当初の目的は達成できず、「剣を作る」という新たな目的が生まれる。

 

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 ダークソウルにはそのようなハプニングは一切起こらない。言われた通り、王の器を手に入れ4人の王を倒す。大いなる流れに身を任せ、身を任せたまま、何事もなく、最後のボスも倒す。ストーリーだけを抜き出すと、これほど単調なゲームは見たことがない。しかし後々語るがこの単調さこそ、このゲーム、ダークソウルの醍醐味を際立たせる刺激剤なのだ。

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 先ほどキャラクターに自由意志は存在しない、と言ったが、厳密には違う。武器や防具、キャラクターメイク、ステータスはプレイヤーの手に委ねられている。レベルが上がると自動的にステータスが上昇するドラゴンクエストなどと違い、ダークソウルはステータスの各項を1ずつ上昇させることが出来る。このシステムにより、キャラクターは魔法使いにも騎士にもなることが出来る。ステータスの自由さは他ゲームの追随を許さない、と断定しても批判されないだろう。強調して言うが、武器や防具、ステータス等に関して言えばとても自由である。一般化すると、身体性の自由、内的な自由はある。

 

 では、環境の自由、外的な自由はあるのだろうか。勿論ある。外的自由を享受する期間はあまりにも短い、しかし確かな自由である。最後のボス、ダークソウル1だと大王グウィンを倒した後、火を継ぐか否かという選択を迫られる。たった2つの選択肢ではあるが、限りなく純な自由である。どちらを選ぶもプレイヤーの、キャラクターの自由なのだ。この火を継ぐか否かという岐路に立たされたキャラクターは、これまでの自由意志の存在しない一本道に、世界の歴史に隷従する個人は、今度は自らが歴史を作る者、言わば偉人へと昇華する。

 

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 この個人と偉人、隷従と解放、強制と自由という二項対立こそ、ダークソウルシリーズの醍醐味であろう。ダークソウル1のスタート地点は牢獄だが、隷従や強制を象徴しているようだ。九鬼周造

「自己の動き方を自己以外のものの必然性に帰するのは操人形にほかならない。その意味で動物即機械ということもできる。人間である以上は善も悪も自己の行為は悉く己の双肩に担って腹の底からはっきりと自由を呼吸していなければならない。」

 

と書き記しており、彼の文章から言葉を借用して、ダークソウルシリーズとは「動物から人間になる物語」と言えるかもしれない。また、言い換えて、「本質が実存に先立つ」から「実存が本質に先立つ」に移行する、実存主義的な作品とも解することが出来る。