ダークソウル考察~歴史と個人~

  ダークソウルを語る際、自由に焦点を当てると少し面白いものが見えてくる。

 

 ダークソウルというゲームでは、プレイヤーの動かすキャラクターの無力さが強調されている。一般的なゲームに比べ、ダメージ量も死亡ペナルティも途轍もなく大きい。そしてキャラクターの使命もまたとても重い。ダークソウル1の世界では火が世界の理なのだが、その理たる火が消えかけ、キャラクターは人柱の如く継ぐため、神話に登場するような偉大な王を4人倒さなければならない。ただの、死んでも生き返ることが出来る以外に特殊能力はない人間の身でだ。そして言われた通り倒す。「言われた通り」と言うのが重要で、キャラクターは操り人形さながら言うことを聞くだけ、そこに自由意志は存在しない。倒さない、という選択をしたければゲームをやめる以外に方法はない。

 

 本来ゲームにはハプニングが付き物である。例えばドラゴンクエスト11では魔王を倒すための剣が奪われ、当初の目的は達成できず、「剣を作る」という新たな目的が生まれる。

 

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 ダークソウルにはそのようなハプニングは一切起こらない。言われた通り、王の器を手に入れ4人の王を倒す。大いなる流れに身を任せ、身を任せたまま、何事もなく、最後のボスも倒す。ストーリーだけを抜き出すと、これほど単調なゲームは見たことがない。しかし後々語るがこの単調さこそ、このゲーム、ダークソウルの醍醐味を際立たせる刺激剤なのだ。

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 先ほどキャラクターに自由意志は存在しない、と言ったが、厳密には違う。武器や防具、キャラクターメイク、ステータスはプレイヤーの手に委ねられている。レベルが上がると自動的にステータスが上昇するドラゴンクエストなどと違い、ダークソウルはステータスの各項を1ずつ上昇させることが出来る。このシステムにより、キャラクターは魔法使いにも騎士にもなることが出来る。ステータスの自由さは他ゲームの追随を許さない、と断定しても批判されないだろう。強調して言うが、武器や防具、ステータス等に関して言えばとても自由である。一般化すると、身体性の自由、内的な自由はある。

 

 では、環境の自由、外的な自由はあるのだろうか。勿論ある。外的自由を享受する期間はあまりにも短い、しかし確かな自由である。最後のボス、ダークソウル1だと大王グウィンを倒した後、火を継ぐか否かという選択を迫られる。たった2つの選択肢ではあるが、限りなく純な自由である。どちらを選ぶもプレイヤーの、キャラクターの自由なのだ。この火を継ぐか否かという岐路に立たされたキャラクターは、これまでの自由意志の存在しない一本道に、世界の歴史に隷従する個人は、今度は自らが歴史を作る者、言わば偉人へと昇華する。

 

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 この個人と偉人、隷従と解放、強制と自由という二項対立こそ、ダークソウルシリーズの醍醐味であろう。ダークソウル1のスタート地点は牢獄だが、隷従や強制を象徴しているようだ。九鬼周造

「自己の動き方を自己以外のものの必然性に帰するのは操人形にほかならない。その意味で動物即機械ということもできる。人間である以上は善も悪も自己の行為は悉く己の双肩に担って腹の底からはっきりと自由を呼吸していなければならない。」

 

と書き記しており、彼の文章から言葉を借用して、ダークソウルシリーズとは「動物から人間になる物語」と言えるかもしれない。また、言い換えて、「本質が実存に先立つ」から「実存が本質に先立つ」に移行する、実存主義的な作品とも解することが出来る。